「あの人がいないと回らない」——それは、経営リスクです


ある日、メールが届いた

「お世話になっております。このたび一身上の都合により、来月末をもって退職いたします」

中堅の製造業を経営するAさんは、その一行を読んだ瞬間、頭が真っ白になったといいます。送り主は、10年以上自社に勤めるベテラン社員でした。

困ったのは、その社員が「なんでも知っている人」だったからです。 取引先とのやりとり、見積もりの出し方、イレギュラーが起きたときの対処——。 会社の「記憶」は、すべてその人の頭の中にありました。

引き継ぎは2週間。 結局、業務は混乱し、取引先に迷惑をかけ、新しい担当者は3ヶ月経っても「前の人はどうやってたんですか?」と聞き続けていたそうです。

これは、特別な話ではありません。


日本企業の「普通の風景」

多くの中小企業では、次のような言葉が当たり前のように飛び交っています。

  • 「この案件は○○さんしか分からない」
  • 「担当者が休むと、その仕事が止まる」
  • 「マニュアルはない。見て覚えてもらうしかない」

これは、個人の能力が高い証拠でもありますが、同時に会社が仕組みではなく人で回っていることを意味します。

業界では「属人化」と呼ばれる状態です。

特定の社員にスキルや知識が集中し、その人が抜けた瞬間に業務が機能しなくなる。日本の中小企業には、この構造が深く根付いています。


なぜ、こうなってしまうのか

属人化は、誰かのせいではありません。日本企業の文化と働き方が、自然とこの状態を生み出してきました。

①「職人文化」の根強さ

日本のビジネスには、長年「技を見て覚える」「経験こそが本物」という価値観が染み込んでいます。マニュアルに頼ることが「本物のプロ」ではないという空気が、文書化・標準化を遠ざけてきました。

②「頑張る個人」が評価される仕組み

「あの人がいないとダメだ」という状態は、裏を返せばその人が評価される理由にもなってきました。自分にしかできない仕事を持つことが、社内での存在感につながる。そのため、意識的・無意識的に「共有しない」「教えない」という行動が生まれます。

③マニュアルを作る余裕がない

日常の業務をこなすだけで精一杯の中小企業では、「仕組みを整える」時間を確保することが難しい。結果として、「今いる人で何とかする」状態が続き、気づけば引き継ぎ不能になっています。

これらが重なって、「仕組みではなく人で回す会社」が出来上がります。


なぜ今、それが「致命的」なのか

人口が増え続けていた時代、属人化はそれほど深刻な問題ではありませんでした。人が辞めても、採用すれば補えたからです。

しかし、今の日本はその前提が崩れています。

厚生労働省の統計によれば、日本の出生数は2024年に約72万人と過去最少を記録しました。50年前(1975年)の約190万人と比較すると、3分の1以下です。将来の労働力供給が構造的に細っています。

採用市場はすでに変わっています。2025年卒の大学生の就職内定率は92.6%と過去最高水準。一方、企業の新卒採用充足率は約70%まで落ち込み、中小企業の4割が採用計画の半分も達成できていません。「採りたくても採れない」が当たり前になっています。

そしてこの流れは、今後さらに加速します。

こうした環境では、属人化の問題は「業務上の不便」ではなく、事業継続そのものへの脅威となります。

  • ベテランが退職しても、補充できない
  • 引き継ぎができないまま、ノウハウが消える
  • 新しい事業や変化に対応する人員を確保できない

2025年上半期の「人手不足倒産」はすでに過去最多を更新しています。これはもはや、「いつか来る問題」ではありません。


問題の本質:「人の問題」ではなく「仕組みの問題」

ここで重要な視点があります。

属人化の問題は、人材の優劣や個人の努力によって解決できるものではありません。どれだけ優秀な人を採用しても、仕組みがなければ同じことが繰り返されます。

問題の本質は、**「業務が仕組みとして設計されていないこと」**です。

仕組みのある会社では、担当者が変わっても業務は動きます。新入社員でも一定の品質でアウトプットを出せます。特定の人に依存しないため、休暇・退職・組織変更にも柔軟に対応できます。

一方、仕組みのない会社では、「その人」が会社の中核を担います。その人が動けば会社は動く。その人が止まれば、会社も止まる。


「仕組みの経営」への転換

では、何をすればいいのか。

答えは単純ではありませんが、方向性は明確です。「人を増やす経営」から「仕組みで回す経営」への転換です。

具体的には、次のような変化が求められます。

業務の可視化——まず、自社の業務がどのように流れているかを「見える状態」にすること。誰が何をしているか、どこで時間がかかっているか、どこが特定の人に依存しているか。現状を把握しなければ、改善は始まりません。

標準化・マニュアル化——可視化できた業務を、誰でも実行できる形に落とし込むこと。完璧なマニュアルでなくていい。「次の人が困らない程度の記録」から始めることが重要です。

IT・自動化の活用——繰り返し発生する業務、判断が不要な業務は、ツールやシステムに任せること。人にしかできない仕事に、人の時間を使うための投資です。

こうした取り組みは、一朝一夕には進みません。しかし、着手しなければ、問題は確実に大きくなっていきます。


最後に

「うちの会社には関係ない」と思っていた経営者が、突然の退職で痛感する。そういうケースが、今も日本中で起きています。

属人化は、悪意から生まれるわけではありません。しかし、放置すれば経営リスクになります。

重要なのは、「人への依存」に気づき、仕組みとして経営を設計し直すこと

人口減少が進む日本では、この転換は業務改善の話ではありません。企業が将来にわたって事業を続けるための、根本的な戦略です。


本記事では「なぜ標準化が進まないのか」という問題の背景を整理しました。では、実際にどこから手をつけるべきか——業務の棚卸しから自動化計画の立て方まで、具体的なステップをまとめたホワイトペーパーを近日公開予定です。